【合理的視点】イスラム(ムスリム)教を信じる人々の視点からLGBTを考える
2018年、杉田水脈議員のLGBTに関する「生産性がない」が波紋を広げた。その結果、杉田議員に殺害予告まで送られるほど事態は過熱した。
北海道に旅立つ前に赤坂警察署に来ました。先日、自分はゲイだと名乗る人間から事務所のメールに「お前を殺してやる!絶対に殺してやる!」と殺人予告が届きました。これに対して被害届を出しました。警察と相談の上、一連のLGBTに関連する投稿は全て削除いたしました。 pic.twitter.com/DJH7fzrrjc
— 杉田 水脈 (@miosugita) 2018年7月23日
それだけではない。1/3の山梨県内の集会で、平沢勝栄議員まで、
と発言し、正月も引き続きLGBT問題が波紋を広げている。
引用元:LGBTばかりは「国つぶれる」 自民・平沢勝栄議員、集会で発言(毎日新聞)
今回は、イスラム教の考え方から、LGBTの問題について考えてみようと思う。
- イスラム教にはLGBTは存在しない
- イスラム教は唯物主義。男女の性差は性器のみで判断され、心の性差までは関与しない
- LGBT問題は、個人の内心の問題で完結させるべき
- 同性婚を認めればいいんじゃね?
イスラム教には、LGBTという考え方は存在しない
マレーシアの国教でもあるイスラムの考え方には、LGBTという考え方はない。さらに言えばその考えを受け入れる余地がない。
なぜなら、イスラム教の考え方は、性差に関しては唯物主義だからだ。もっと平たく言えば、
ということだ。所謂ゲイやレズ等の「身体は男性でも心は女性」や「身体は女性でも心は男性」といった考えは成立しない。
聞いただけでは、かなり偏屈な考えに聞こえると思う。
イスラム教は、個人の内心には不干渉
実は、イスラム教の教えは非常に寛容で、個人の内心には干渉しない。当時イスラム教の預言者ムハンマドは、降伏者が改心しイスラム教に帰依したとしても、その内心には関与せずお咎めなしとした。さらに、有名な話としてウサーマ٠ブン٠ザイドの逸話があるが、この記事の本題ではないのでここでは割愛する。
イスラム教と、それに基づくシャリア法の考え方は、
という、極めて人の内心には不干渉な考え方なのだ。一方、キリスト教が人の内心に立ち入り、その内心をめぐって宗教戦争の様な事を繰り返したことを考えれば、非常に相反する宗教なのである。
法はあくまで、外形を基準にさだめるものなのだ。
個人の内心まで立ち入ると、法は法でなくなる
法学の原則論として、憲法>法律>道徳といった、ルール階層の原則がある。
ピラミッド型だと少しわかりずらいかもしれないが、
- 憲法は、国家が国民の権利を侵害しないように、法律の立法に制限を与える(国民の権利を規定する)
- 法律は、社会が国民個人個人の道徳・信条を侵害しないように、司法に制限を与える(国民の道徳・信条を保護する)
という位置づけになる。
つまり、法律の位置は、国民の道徳や信条を侵害するものであってはならないのだ。ところが、国民の道徳や信条が重要で、これは内心まで含めた道徳・信条を規定したものではない。内心まで法で規定すると、その法に基づいて司法が判断を下す場合、内心を他人がはかることになるため恣意的判断が下されやすいからだ。
イスラム教のシャリア法はその点厳格で、あくまでも外形的な判断のみにとどまるようになっている。
もし、個人の内心までほうが介在してしまうと、極端な話、
- 彼らは外形はイヌだが、心の中は人間だと思っている。だから、人間と同じような法体系で扱ってほしい。
- 私は外形はヒトだが、心の中はサルだと思っている。だから、人間と同じような法体系で扱ってほしくない。
ということになる。これをリアルでやっちまったのが、生類憐みの令なのだ。
LGBT問題の最大の問題点は、実は人間の内心まで法が及んでいる点にある。人間の内心にまで法の規定が及んでしまうと、それは法ではなく道徳規制になりかねない。
余談:人間の内心まで法が及ぶ儒教
ちなみに、人間の内心にまで法が及ぶ考え方は、実は儒教の考え方に直結する。儒教の恐ろしいところは、法律よりも優先して儒教がくることだ。元々儒教は道徳的な教えだったのだが、中国の歴史の中でいつの間にか法律に昇格してしまった。漫画「キングダム」でおなじみの秦の始皇帝もこの儒教文化に苦しめられ、漢の武帝に至っては、儒教を国の基本理念にしてしまったほどだ。
お隣の国が、国際法を無視してアホなことばかり言ってくるのは、実は儒教文化にある「兄(朝鮮)は弟(日本)よりも優先される」という考え方が根底にある。ちなみに儒教は中華思想とくっついているので、朝鮮にとって偉いのは父(中国)になる。
こう考えると、孔子(というかその弟子)は非常に罪深いことをしてくれたものだ・・・。
イスラム教は、女性の身体的安全を極限まで守る宗教
イスラム教はかなりLGBTに対して抑圧的で、女性に対しても非常に厳しい宗教だと思われがちだが、そうではない。砂漠の中で生まれたイスラム教は、実は女性の身体的安全を第一に考えられた宗教だといえる。
例えば、イスラム教は以下の教えで女性を守っているのだ。
ヒジャブ(スカーフ)で顔を隠す
イスラム教徒の女性がなぜヒジャブ(スカーフ)で顔を隠すのか?というと、それは、女性の魅力に幻惑して男性(当時は盗賊)が襲ってこないようにするためらしい。砂漠では逃げ道がないため、綺麗な女性がいると、襲った挙句に人買いに高く売りつけてしまうことがあったので、ヒジャブで顔を隠すようになったそうだ(伝承元不明)
婚前交渉の禁止
一言でいえば、ヤリ逃げ防止である。女性が望まぬ妊娠をしないように男性との接触を厳しく規定することで、シングルマザーになって貧困に陥らないようにしている。さらに、婚姻をしていないまたは親族でない男女は、いっしょに住むことができないので、物理的に性交できないようにしている。
一夫多妻制
経済力のある男性が女性を養う義務が生じることで、女性が貧困に陥らずに自己実現が可能な生活を送ることができる。日本では、戦前~戦後しばらく「お妾さん」という文化があったが、西洋文化が浸透するにつれ、「お妾さん」文化は衰退し、同じことをしようとすれば「不倫」バッシングで叩かれることになった。
他人の家を暴いてはならない
これは意外と重要で、「個人の内心に干渉しない」というイスラム教の原理原則が守られている。仮に誰かが同性愛をしていて、それを他人が証拠として提出してもそれは違法証拠となり証拠能力が否定されるのだ。
愛自体は禁止されていない
イスラム教のシャリア法は、あくまで社会的な場の中での行為を規制する。個人の内心までは干渉しないので、「愛」の形までは規定されない。つまり「愛」の多様性を認めているのだ。当然、家の中で同性愛にいそしんでも罪には問われない。
もしイスラム教徒で同性愛が発覚したら?
イスラム教は、公共の場で発覚した同性愛者にはシャリア法に基づいて厳罰が課される。
私が住むマレーシアでも例外ではなく、マレーシア東部のトレンガヌ州で同性愛の女性2人に公開つえ打ち刑が行われた。
◆同性愛の女性2人に公開つえ打ち刑 マレーシア
このように、「公共」の場で同性愛をひけらかすのは、イスラム教の世界では違法なのだ。
ということだろう。
余談:公共の場では厳しいマレーシア
ちなみに、マレーシアは、公共の場でキス(接吻)をすると捕まる州(ペラ州)もある。一方で女性向け下着を売るブルセラショップも多く販売も許可されている。つまり、公共の場と家をきちんと分けて考える法体系になっている。
また、マレーシアの法体系は、シャリア法と世俗法との二重になっていて。イスラム教徒(ムスリム)は、結婚や親権など家族や個人の生活に関する部分についてはシャリア法に従う。我々日本人の様な他の宗教の信者は世俗の法律に従う。
LGBT論者は、なぜ言葉尻をとらえて騒ぐのか?
ここまでLGBT問題について、イスラムの考えからいろいろとお伝えしてきたが、結局のところ、
と思っている。男とか女とか内心については干渉せず、婚姻届けに結婚したい人を2人書けばそれで済む話だ。
ところが、自民党をはじめ与党の議員は、同性愛の婚姻に関して中々首を縦に振らない。その背景としては、日本の伝統文化を重視する彼らの姿勢から来たものだ。
自民党の議員の中でも、平沢勝栄議員や杉田水脈議員が危惧しているのは、日本人が2千年にわたり築いてきた「家族」という文化が、同性婚により壊されるのを恐れているからだと思う。
しかし、杉田水脈議員の「生産性がないのです」は極論すぎるとはいえ、平沢勝栄氏が危惧している「性的少数者(LGBTなど)ばかりになったら国はつぶれる」という考え方も一理あると思う。それをLGBT論者は、言葉尻だけをとらえて、言葉の表面だけの思考で批判する。それがLGBTの議論にふたをしてしまっているのだ。
正直、両者ともに浅慮としか言いようがない。水掛け論に終始せずもっと深い議論をしてもらいたいものだ。
ただ、某立憲民主党あたりがLGBT問題を担ぎ出すと、MeToo運動の二の舞になって、議論にすらならずに政局で終わる気がする・・・(^^;)